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by nycyn
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世界の宗教と戦争講座 ⑤

終わりにしたはずのこのシリーズだけど、ある人から「日本人にとって最も馴染みのある仏教を書かないでどうする!」というクレームがあったので、もう一回だけ書くことにした。

過去分はこちら: ①和の精神②ユダヤ教③キリスト教④イスラム教


5.仏教

仏教の特徴は、根拠教典が無いことである。
ユダヤ教・キリスト教には聖書、イスラム教にはコーランがあり、いくつの宗派に分かれても教典は同じであるのに対し、仏教では各宗派共通の教典が無いのである。
従って、他の宗教から見ると、仏教には統一的な思想が無いため、非常に分かりにくい宗教となっている。

一方、この統一性の無さにより、仏教の世界では宗教戦争が起きていない。
キリスト教やイスラム教の世界では、唯一絶対の神やその教えの存在により、解釈をねじ曲げたとか神を冒涜したという発想から宗教戦争に至ってきたのである。
確かに、「イスラム教は恐い、仏教は穏やか」という漠然としたイメージを持っていた。
これは学校教育の影響も大いにあると思うけど、あながち間違いでは無いと思う。


仏教は釈迦(ゴーダマ・シッダルタ)が開祖であるが、彼は他の宗教のようにこと細かくやるべきことを記さなかった。
キリスト教も仏教も苦しみから救われることを目的としている点では同じだが、聖書には「救われ方」が細かく記されているのに対し、仏教では「悟りを開きなさい」と書かれているだけで、そのために何をすれば良いかが細かくは書かれていない。
また、唯一絶対の神がいないことも仏教の特徴であり、こうした特長が多くの宗派を可能としてきたのである。
これは先日書いた「和の精神」と同じ。


仏教を大きく二つに分けると、上座部(小乗)仏教と大乗仏教に分かれる。
釈迦の教えは、人間が四苦(生老病死)から逃れるためには煩悩を捨て、世の無常を悟り、仏になることだとしている。
つまり、釈迦は「救われたければ出家して仏になりなさい」と説いており、これが上座部仏教の考え方。
これに対し、「妻も財産も捨てて出家した人でないと救われないのか」という批判が生まれ、在家の人でも救われるようにという考え方に基づいているのが大乗仏教である。
大乗仏教では、偉大な仏(悟りを開いた人、お坊さん)がいて、その人を信仰してお祈りすれば救われる、という考え方なのである。

日本では、もともと上座部的な仏教が伝わっていたが、最澄が中国から大乗仏教を持ってきて定着させようとした。
鎌倉時代になると、この大乗仏教が民衆に定着してきて、日本的な大乗仏教が展開され、その典型的なものが浄土宗である。
大乗仏教である浄土宗は、出家して厳しい生活に耐えることを人々に求めるのではなく、出家して悟りを開くのは一部の僧だけであり、民衆には阿弥陀如来への信仰を促し、それによって救われると説いた。
この思想はどこかで聞いたことがある気が・・・、キリスト教と同じじゃないか。
やはり、人間は易きに付くんだねえ。


そして、日本的な仏教のベースとなっているのが、親鸞による浄土真宗である。
親鸞はそれまでのルールを破り、結婚してしまった。
本来、(上座部)仏教では僧は出家しなければならないが、阿弥陀如来の力に頼るのであれば、出家してもしなくても同じであると解釈したのである。
また、民衆レベルで言えば、法然は信じる「回数」が重要であるとし、親鸞は回数ではなく「信じること」が重要であるとし、一遍に至っては「信じることすら要らない」と説いた。
一遍によれば、阿弥陀如来が救ってくれると言っているのだから、信じる人と信じない人が差別されることは無い、としたのである。
ここまで来ると、釈迦の教えとは全く異なるものになっている。
従って、外国の宗教に関する本では、日本の仏教を「大乗の大乗」と表現し、インスタント仏教とまで言っている学者もいるらしい。
統一的な教典を持つ宗教の人から見れば、確かに日本の仏教は宗教に見えないだろう。
このような統一性の無さが柔軟性につながり争いを起こさずに済んできたんだろうから、個人的には「別にいいんじゃない」と思うけど、他国から見れば「ポリシーの無さ」と見えるのかもしれない。


その後、徳川家康が檀家制度をつくり、日本人は必ずどこかのお寺(宗派)の信者になることを求めた。
本来、宗教は個人が自由に選択できるものであるが、檀家制度の下では人は生まれながらにして宗派が決められており、これは一生変えられないこととされた。
従って、お坊さんにしてみれば、自分がどのような僧であれ、堕落していようがお金ばかり要求しようが信徒は絶対に減らないわけで、これが日本の仏教の堕落を招いた。

堕落の典型的な例が僧侶の妻帯であり、教義の上で僧侶の妻帯を認めているのは浄土真宗だけであるが、実際は妻帯を認めていない他の宗派でも僧侶が結婚しているのである。
明治政府は「お坊さんも結婚して良い」という許可を与えたのだが、本来僧侶の妻帯を禁じている宗派の信者であれば反対や大議論が起きてもおかしくないものの、なし崩し的に僧侶が結婚するようになった、というのが何とも日本的である。

従って、日本の仏教はかなり特異なものであり、「私は無宗教だが、私の家は浄土宗です」という発言をする人がいるが、これは檀家制度の名残りなのである。
ここでも易きに付く日本人の姿が・・・離婚したいがために新しい宗派(英国国教会)を作ったイギリスの王様と同じだな。
僕が以前住んでいたところでは、坊さんがくわえタバコで原チャリに乗っている姿をよく見かけたし、バイトしていた居酒屋では頻繁に坊さんが飲んだくれていた。
坊さんに対しては「高貴、清貧、質実」といったイメージを期待してしまうんだけど、こうした歴史を踏まえれば、そんなことを期待するのは酷なようだ。


日本人は「霊」の存在を信じており、「死んだ人の悪口を言ってはいけない」というのも霊の存在を意識してのことである。
一方、仏教では死後は別のものに生まれ変わるという輪廻転生の思想に基づいており、「人間が死んだ後に肉体とは離れた霊が残る」という発想は無い。
ところが、仏教が日本に伝わった当時、日本の天皇家は仏教に対して霊の鎮魂を期待してしまった。
従って、仏教の世界では存在しないはずの霊を仏教の力で鎮めるという、極めて特異なものになってしまっている。
へえー、そうなんだ。
僕を含めてこういう背景を知らない人が多いから、無知につけ込んで商売する葬儀ビジネスが成立するんだろう。
葬儀と言えば、過去に読んだ本の中で葬儀屋を悪く書いているものはあっても、肯定的に書いているものは殆ど無かった気がする。
人の悲しみにつけ込んで5百万円の葬儀契約を結ばされるとか、僧侶へのお布施の一部は葬儀屋に流れている場合もあるという話は本当らしいし、戒名はパソコンソフトで作成しているといった噂まである。

ある本によれば、病院と葬儀屋は結託していて、葬儀屋は病院スタッフを頻繁に接待する見返りに、病院で患者が死亡した際はすぐにその葬儀屋へ連絡するように依頼しているらしい。
先日、リリー・フランキー氏の「東京タワー」を読んでいたら、霊安室にいつの間にか葬儀屋が紛れ込んでいて、基本料金にオプションやら何やらを追加されて、結局高額を支払うことになったと書いてあった。

遺族にしてみれば、高額な葬儀プランを勧められながら安いプランを選択すると死者に失礼、みたいな考え方に行きついてしまうのかもしれない。
でも、僕は霊の存在は全く信じないし、こういうセコイ葬儀ビジネスはキリスト教の免罪符と同じような気がして加担するのは嫌だから、少なくとも僕が死んだときは最低料金の葬儀プランにしてもらおうと思っている。(←気が早い。。)

なお、参入障壁の高い葬儀ビジネスにも外資の波は押し寄せており、ムダをカットした明朗会計をモットーとする外資系の葬儀屋もあるらしい。


仏教の非暴力主義を貫いているのがチベットである。
チベットは本来独立国だが、中国は第二次大戦後にチベットに武力侵攻し、中国の自治区としてしまった。
中国には中華思想があり、中国は世界の中心、他国は全て野蛮人であり、領土を拡大することで国が豊かになるという思想を持っている。(実際は管理コストの方が高くつくことが多いが、中国はこれに気づいていない、或いはプライドが邪魔して引き下がれない。)
だから、中国はチベットの独立性を奪い、「(世界の中心である)中国と同化すれば良いではないか」とチトー政権がユーゴスラビアで行った民族浄化策と同じことを進めている。
ユーゴやアフガンでは民兵を組織して抵抗する道を選択したが、チベットはダライ・ラマの指導の下、あくまで非暴力に徹した抵抗を行っている。
日本を含め、他国はもっとチベットの態度を尊重し、中国を批判していくべきである。

一方、チベットは本来勇猛果敢な国であったが、仏教により国力が落ちたという見方もある。
他国であれば政治家や軍人になる人達が僧侶の道を選び、僧侶は結婚できないことから子孫を残さない、という問題である。
これが中国による侵略を許したという批判もあり、宗教の一側面として留意する必要がある。
作者の中国嫌いが顕著に表れている部分なのでなるべく中立的な表現を使ったけど、書いている内容はその通りだと思う。
米国を始めとして中国の人権無視を非難する国はあるけど、現在の驚異的な経済成長を考えると、そこまで強い批判は出来ないんだろう。
一方、多くの国が本音では中華思想を嫌っているようなので、現在の経済成長がストップした際は各国による中国批判が強まるのではないかと思う。

また、敬虔な仏教徒であるがゆえに中国の侵略を許したとすれば、現代社会における仏教の不完全性と見る事もできるだろう。
本来は日本を含めた他国が中国を牽制すべきなんだろうけど、上記の通り難しいのも良く分かる。


* * * * * * *

日本の仏教は特殊だということが良く分かった。
「和の精神」は宗教に基づいているわけでは無いらしいけど、やはり仏教も日本人の価値観に少なからず影響を与えている気がする。

「宗教を信じないのであれば、何を拠り所(価値観)にして行動しているのか分からない」と考えているアメリカ人がいる事はキリスト教のところで書いたけど、日本人には宗教とは関係ない道徳・倫理観みたいなものがあると言われている。
例えば、チップという金銭的なインセンティブが無くても全ての顧客に愛想良く対応すべし、というのは欧米には無い思想であり、これを支えているのは仏教とは関係ない道徳・倫理観だと思う。
このことをアメリカ人クラスメートに話したら、「そりゃ理想的だね、アメリカでは絶対にありえない」と言っていた。
尤も、その道徳・倫理観が最近では崩壊してきているという意見も多数あるけど。

また、僕は何の宗教も信じていないけど、最も馴染みがあり身近な宗教は仏教であり、他の宗教に比べると「理解しやすい、どこか安心」と感じるのは日本人として自然なのかもしれない。
一方、他の宗教(特にイスラム教)に基づく考え・行動は日本人にとって理解しがたいかもしれないが、これを非難するのではなく、それぞれの宗教に基づく思想・価値観の中で育った人であればそのような言動に結びつくのが当然である、という理解をする努力が必要だろう。

以上、「世界の宗教と戦争講座」はこれにて(本当に)おしまい。

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by nycyn | 2007-01-17 15:26 | 雑感