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ニューヨークの生活、MBA、仕事・・・
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カテゴリ:雑感( 76 )
日本人のイメージ

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先日、「世界の日本人ジョーク集」という本を読んだ。
「日本人は**」というイメージを持っている外国人は多く、世界各国の日本人をネタにしたジョークを紹介するという本。
日本人だけではなく、他の国の人に対するジョークも同時に含まれていて面白い。

僕も大学で「日本人は**なんだろ」と言われることがあり、多いのは「勤勉」や「上下関係が厳しい」に加えて、「日本は物価が高い」など。
他にも色々あるけど、共通しているのは日本に対する認識が古いこと。
日本は数年前まで十数年に及ぶ不況だったにもかかわらず、今でも80年代後半のイメージを持っている人が結構多い。
でも、正しいかどうかではなく、外国人が日本人に対してどのようなイメージを持っているか、また他国の人たちが世界でどのように思われているのかを理解すべきなんだと思う。

ということで、この本の中で面白かったジョークをいくつかご紹介。
なお、中には差別的にも捉えられる表現があるけど、敢えてそのまま記載することにする。


【各国人に対するイメージ】
アメリカ人:独善的、傲慢、自慢好き
イギリス人: 紳士、堅苦しい
ドイツ人: 真面目
フランス人: 好色、グルメ
イタリア人: 情熱的
ロシア人: 酒好き、物が無い(ソ連時代)
ユダヤ人: 狡猾、金儲けが巧み、議論好き
ポーランド人: 愚か者
スコットランド人: ケチ、抜け目がない
ギリシャ人: 絶倫、男色
前半は納得なんだけど、後半は良く分からない(イメージが無い)。


【日本人=金持ち】
学びたいのならロンドンへ行け。
食べたいのならパリへ行け。
着たいのならミラノへ行け。
聴きたいのならウィーンへ行け。
踊りたいのならリオデジャネイロへ行け。
稼ぎたいのなら東京へ行け。
死にたいのならバグダッドへ行け。
日本って稼げる場所なのかな・・・少なくとも給料はアメリカより低いと思うんだけど。
でも、事実がどうかではなく、これが「イメージ」なんだろう。


【日本人=マンガ好き】
アメリカ人が5人集まると、競争が始まる。
イギリス人が5人集まると、議論が始まる。
ドイツ人が5人集まると、ビールで乾杯。
東欧の旧共産圏の人が5人集まると、ジュース1本を5人で飲む。
インド人が5人集まると、映画館へ行く。
日本人が5人集まると、マンガの回し読みが始まる。
プエルトリコ人が5人集まると、壁に落書きを始める。
スペイン人は3人が寝ていて5人集まらない。
イラク人が5人集まると、テロの計画を練る。
北朝鮮が5人集まると、1人が独裁者となり独裁政権が生まれる。
最後の二行を見ると、「世界」というよりアメリカのジョークのような気がする。


【日本人=会社人間】
無人島に男二人、女一人が取り残されたら・・・
イタリア人: 男二人が女をめぐって争い続けた。
ドイツ人: 女は男の一人と結婚し、もう一人の男が戸籍係を務めた。
フランス人: 女は男の一人と結婚し、もう一人の男と浮気した。
アメリカ人: 女は男の一人と結婚・出産したが、その後離婚し、親権を争うためにもう一人の男に弁護士役を頼んだ。
オランダ人: 男二人はゲイであり、結婚した。女は無視された。
日本人: 男二人は、女をどう扱ったらよいか、東京の本社に携帯電話で聞いた。
オランダ人面白すぎ。


【日本人=曖昧、主張が弱い】
レストランでスープにハエが入っていたら・・・
ドイツ人: 「熱いスープは殺菌されている」と冷静に考え、ハエを取り出してからスープを飲む。
フランス人: スプーンでハエを押しつぶし、出汁をとってからスープを飲む。
中国人: 問題なくハエを食べる。
イギリス人: 皮肉を言ってから店を出る。
ロシア人: 酔っ払っていてハエが入っていることに気づかない。
アメリカ人: ボーイを呼び、コックを呼び、支配人を呼び、裁判沙汰となる。
日本人: 周りを見回し、自分だけにハエが入っているのを確認してから、そっとボーイを呼ぶ。
韓国人: ハエが入っているのは日本人のせいだと叫び、日の丸を燃やす。
フランス人ってそうなの?
日本と中国・韓国の間に難しい問題があることはアメリカでも知られている。


【日本人=時間に正確】
ある音楽コンクールにて・・・
1時間前にドイツ人と日本人が到着した。
30分前にユダヤ人が到着した。
10分前にイギリス人が到着した。
開始時間にアメリカ人が間に合った。
5分遅刻してフランス人が到着した。
15分遅刻してイタリア人が到着した
30分以上経ってからスペイン人が到着した
ポルトガル人がいつ来るのかは、誰も知らない。
スペイン、ポルトガルの話はよく聞く。
アメリカ人が間に合った、というのは??だけど。


【日本人=ユーモアのセンスが無い】
完璧な人間とは、以下のような人物のことである。
イギリス人のように料理し、フランス人のように運転し、イタリア人のように冷静で、日本人のようにユーモアがあり、スペイン人のように謙虚で、ポルトガル人のように勤勉で、ベルギー人のように役に立ち、オランダ人のように気前が良く、韓国人のように忍耐強く、インド人のように上品で、ロシア人のように酒を飲まず、トルコ人のように計画性があり、イラク人のように温厚で、ルクセンブルク人のように存在感がある人のことである。
逆にしたものが各国に対するイメージです。(念のため)

他にも沢山の事例が紹介されているので、こういうのが好きな人にはお勧めの本です。


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初日の出、じゃなくて1/2の日の出。
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by nycyn | 2007-01-03 13:05 | 雑感
教育改革

今日、金曜日で今年の仕事もおしまい。
米国では元旦が休みになるだけで2日からは通常通り仕事が始まるので、年末を迎えたという風情はあまり感じられず、当然納会のようなものも無い。

とは言え、やはり最終営業日ということで職場はのんびりモード。
僕もそれに便乗して、今日は殆ど仕事をしなかった。
ニュースをチェックしたりメールしたり、長めのランチを取ったりしてだらけた一日を送った。
休暇明けの今週は飲み会が続いて疲れていたこともあり、会社を早く出て髪を切り、観光客で異常に混雑した道を避けて車道を歩いて帰宅した。


そんなダラダラの午前中にエコノミストの記事を読んでいたら、日本の教育改革の記事が載っていた。
タイトルは"The wrong answer"で、要約するとこんな感じ。(原文は一番下)

各国の子供の学力を測定するテストにおいて、日本は年々順位を下げている。
親は子供のいじめや自殺の問題を心配している。
こうした事態を受け、政府は次の選挙対策として「何でもいいから」何か対応しなくてはと焦っている。
政府が考えている教育改革案は、変化の早い情報社会や国際化に対応するものではない
文部科学大臣は、国の歴史・文化の深い理解に加え、正しい日本語の習得を最重要課題に挙げるとともに、国会では学校で愛国心を刷り込むことを求める法案を可決した。
日本経済は過去数十年で大きく様変わりしている一方、学校のシステムやカリキュラムは60年前から変わっていない。
このカリキュラムは「生産ラインで文句を言わずに長時間働く子供を養成する」ことを目的としており、言葉や数式の暗記に重点が置かれている。


僕は教育についての知見は広くないし普段あまり考える事も無いんだけど、日本語じゃなくて外人が書いた英語のニュースで見ると、何故か考えさせられてしまった。
また、小学校時代は一度も家で勉強したことが無く、クラス平均以下の成績しか取れなかった僕が小学校教育について述べるのは説得力が無いかもしれないけど、この記事を見ると何も考えずにはいられない。
特に、海外で生活している者として、英語教育については一言モノ申したい。


小学校における英語教育の必要性について、個人的には是非ともやるべきだと思う。
反対派の人達は「英語をやる時間があったら日本語を完璧にしろ、英語なんかやったら日本語が更に乱れる」と言うが、ここで言う「日本語の乱れ」とは何だろうか。
敬語が適切に使えなかったりコミュニケーションが上手く取れない人が増えてきていると言われるが、これは日本語の問題じゃなくて精神・姿勢の問題だろう。
一方、仮に「乾坤一擲」「不惜身命」といった関取の口上のような言葉を知らないことを持って「日本語の乱れ」と言っているのであれば、別に構わないのでは、このような言葉を遍く全ての人が知っている必要は無い、やりたい人が大学などで勉強すればいい、と思う。

暗記中心の勉強に関しては、暗記の全てが悪いとは思わない。
特に、算数において暗記は必須だと思うし、九九を二桁×二桁までやっている国もあると聞く。
一方、社会のような科目において、例えば年号を暗記したりするようなものは不要だと思う。

だから、限られた時間の中で何を足して何を削るのか、という議論を十分に行えば、「英語教育を開始すると・・・」という議論はある程度解決するはずなのである。
個人的には、絶対的な勉強時間をもう少し増やしても良いのでは、とも思うけど。(←勉強していなかったお前が言うな)


それよりもむしろ、こういう技術論に入る前にある「何のために英語を勉強するのか」という部分に問題があるのではないか。
これだけ国際化が進む中で、世界最高のスピードで高齢化が進む日本が世界第二位の経済大国の地位を維持・向上させるためには、成長の源泉を海外の市場や人材に求めるのは当然の流れ。
にもかかわらず、高齢の政治家を中心として英語教育の早期化に後ろ向きなのは、導入を阻止するインセンティブがあるのではと考えてしまう。
例えば、十分な英語教育を受けていない世代が職を失うとか、海外の安価な労働力に対する参入障壁となっている日本語オリエンテッドな産業界とか・・・
この不利益を被る人達が選挙の結果を左右していて、政治家が次の選挙のことだけを考えていたとしたら、日本にとってこんな不幸なことは無い。
会社経営もそうだけど、あと数十年(十数年)でこの世(会社)を去る人達が多くの物事を決めている現状では、日本の将来のことを考えろと言っても難しいのかなあ・・・(言いすぎ?)
だから、英語教育導入反対の理由に「日本語が・・・」と言っている人達は、こうした「本当の理由」を隠しているだけだと思っている。

他には、実践的な英語を教えられる教師がいないという問題もあるけど、人材を海外に求めればすぐに解決する話。
ただし、これによって不利益を被る人達による政治力がここでも問題になる。(教師の団体の政治力が強いのかどうかは知らないけど。)

こうした考え方に基づけば、「日本の長期的な将来利益」と「制度を作っている人達の利益(選挙での当選)」が一致していないところに問題の根源がある。(ビジネススクールでよく出てくる"Mis-alignment of interests")
この「利害の不一致」を解決するためには・・・という議論を始めると政治の話になってしまうが、日本の英語教育推進が進まない大きな理由はこの部分にあると勝手に思っている。
また、先日書いた宗教の話じゃないけど、過去数千年に亘って実質的な鎖国状態にあった島国ニッポンの歴史を考えると、外国との本格的な交流につながる英語教育強化には多くの人が及び腰になってしまうのかもしれない。


じゃあ、どうすれば良いのか。
諦めるわけじゃないけど、必要に迫られてからしか実現しないと思っている。
将来予想される不況、人材不足、空洞化、年金財政破綻・・・、何がきっかけになるか分からないけど、外国人労働者を受け入れざるを得ない事態を迎え、英語教育を強化せざるを得なくなる、というシナリオ。
あまりに悲観的じゃないか、というご意見もごもっともだけど、僕はそれくらい政治に対して無力感を感じている。
まあ、先日NYから帰国した友人が政治を変える(お手伝いをする)ためにがんばってくれるだろうから、それに期待しようかな。


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エコノミスト記事
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by nycyn | 2006-12-30 13:11 | 雑感
世界の宗教と戦争講座 ④

さて、今回はイスラム教。
過去分はこちら →


4.イスラム教

イスラム教の特徴として偶像崇拝の禁止がある。
神様は人間を超越した存在であり、その神様を人間が作るなんてとんでもない、神に対する冒涜である、という考え方。
これはキリスト教でもイスラム教でも同じはずだが、キリスト教では「神そのものではなくイメージだから良い」とされている。
なお、バーミヤン石窟の大仏をイスラム教徒が破壊したが、あれはタリバンという「ごく一部」の過激派が行ったことであり、全てのイスラム教徒がこのような破壊活動を行ってまで偶像崇拝を禁止しているわけではない。

厳しい食物規定もイスラム教の特徴であり、代表的なものに「豚肉を食べてはいけない」というのがある。
なぜ豚肉がダメなのか、実は良くわかっていないのだが、コーランに書いてあるからダメ、ということなのである。
イスラム教ではこのような細かい規定が全てコーランに書かれており、現代社会では合理的ではない規定も守らなければならないのである。
日本では「形式ではなく心で信じることが重要」といった考え方があり、キリスト教もどちらかといえばそれに近いが、イスラム教ではまず形式的なことをキッチリ守らなければならず、「形式的には戒律を守っていないけど心では信じている」というのは認められない。
大学の時にアルバイトをしていた居酒屋で、イスラム教の人がお客として来た時、焼き鳥盛り合わせの中に豚バラ串が入っているのを気づかずに一口食べ、豚だと気づいて涙目になったことがあった。(←焼き鳥盛り合わせに豚バラが入っているのは確かにおかしい。)
一方、その居酒屋の厨房で働いていたイラン人は豚キムチをバクバク食べていたので、この「形式主義」は人によってかなり差があるようだ。


その他、一日五回の礼拝や断食など馴染みの深いものもあるが、ザカート(喜捨、施し)の考え方が興味深い。
これは、豊かな人が貧しい人に施しを行う、しかも喜びを持って行う、というものである。
日本人が旅先でよく腹を立てることだが、イスラムやヒンズーの国にいくと人々が物乞いをしてくる、施しをあげたのにお礼を言わない、というのがある。
しかし、このザカートはコーランに従って行わなければならない「義務」である。
だから、物乞いをする人にしてみれば「ザカートを行うチャンスを与えてあげた」のであり、施しを受けてもお礼を言う筋合いは無いのである。
これは国と国の外交でも散見されることであり、国として援助を受けても感謝の気持ちを表さないことがある。

また、ザカートの別の側面として、援助を求める人には応じなければならない、というのがある。
例えば、道を尋ねられて「知らない」と答えたり、頼み事をされて断るのはザカートの精神に反することであり、知らない道を尋ねられたり、自分に出来ない事を頼まれても、知らない・出来ないとは言わず、出来る範囲で「何らかの対応」をしなければならないのである。
イスラム教徒ではない人にしてみれば単なる「嘘つき」だが、彼らにはその意識が無いので、この点は注意する必要がある。
ニューヨークにもいいかげんな人、安請け合いして結局何もしない人が沢山いるけど、彼らは全てイスラム教徒なのだろうか。(いやいや・・・)
また、横柄な態度で「タバコくれー」と言ってくる人がいるけど、僕はザカートのチャンスを与えられているのか・・・?


宗派に関しては、大多数を占めるスンニ派とシーア派に分かれる。
これはムハンマド(マホメット)の後継者を巡る争いの中で、後継者の地位を巡って争ったことが発端である。
スンニ派の主体はアラブ人(イラク等)であり、シーア派の主体はイラン人(白人)となっている。
イラン・イラクの対立はここに原点があり、「異教よりも異端の方が罪が重い」という言葉があるように、イラン・イラクは他の宗教よりもお互いを嫌っているのである。
イスラム教のような一神教では、同じイスラム教の中で異なる解釈を行っている宗派は許せない存在であり、場合によっては殺害してでもそれを撲滅しようとする。
ここで問題なのが、一部の過激派が拠り所としている「神の教えを守るための行為(侵略・殺害)は正義とみなされる」ことである。
もちろん、多くのイスラム教徒はこのような考え方を認めていない。

こうした考え方はキリスト教でも中世までは認められており、中南米の征服がその例である。
結果として、キリスト教徒は中南米の原住民の多くを殺害することで宗教・文化を破壊し、現在では全ての国がキリスト教を信じ、言語もスペイン語かポルトガル語になっている。
こうした征服・殺害を当時のカトリック教会が認め、むしろ推進していたところに一神教の恐ろしい一面がある。
宗教が征服・虐殺の理屈として使われる点は、オウム教の存在もあって、日本人に「宗教は恐い・不気味」というイメージを持たせる一つの要因になっていると思う。
日本にいる頃、極端な考え方を信じ込んでいる人のことを「あいつの考え方は宗教っぽい」などと言ったりしていたけど、アメリカでは絶対に言わないようにしている。(たまに言いそうになって慌てる。。)


イスラム教徒(パレスチナ)はユダヤ教徒(イスラエル)と激しく対立しているが、この原点は聖地エルサレムを巡る争いである。
呼び方は違っても同じ造物主を信じているイスラム・ユダヤ・キリストの各宗教は、全てエルサレムを聖地としている。
(ご都合主義の)キリスト教はともかく、イスラムもユダヤも戒律を厳格に守る宗教であることから、この聖地を他の宗教に渡すことは神の教えに背くことであり、絶対に出来ないのである。
だから、日本人から見ると「話し合えば・・・」と考えてしまいがちだが、これは原理原則を持たない人間の考えることであって、イスラム・ユダヤの両教徒にとってはあり得ない話なのである。
だから、エルサレムを巡る争いは、イスラム・ユダヤ・キリストの各宗教とは関係の無い第三者がエルサレムを管理することでしか解決されることは無いだろう。
じゃあ、仏教徒?ヒンズー?
いや、日本が存在感を発揮できる数少ない分野では?
ここは日本がエルサレムを管理するか・・・オランダ軍の護衛付きで。


* * * * * * *

この後も仏教とか儒教とかについて書いてあるけど、細かい話に終始してあまり面白くなかった。(←これ以上書かないための理由付けでもある。)

全体を通して、作者は宗教を悪い面から見ている印象を受けるが、これが一般的な日本人の感覚に近いのかな、と思った。
また、本を読み、理屈のうえで何となく理解できたとしても、宗教的な拘りや価値観に関する「温度感」を把握するのは難しいということが分かった。
出来れば別の機会に、違う作者が書いた宗教の本を読んでみたいと思う。


ということで、「世界の宗教と戦争講座」はこれにておしまい。
期末試験も明日でおしまい。

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by nycyn | 2006-12-16 14:05 | 雑感
世界の宗教と戦争講座 ③

前々回(和の世界)前回(ユダヤ教)の続き。


3.キリスト教

キリスト教と言っても宗派は様々で、その数は600にも及ぶと言われ、代表的なものがローマ・カトリック教会、東方正教会(ギリシャ教会)、英国国教会、プロテスタント、である。

ユダヤ教に比べると、キリスト教は妥協の多い宗教である。
例えば、昔はカトリックだった英国において、どうしても離婚したい王様がいたけど、カトリックでは離婚が認められなかったので、カトリックから独立して英国国教会を作ってしまった。
このように、解釈や特定の人物の都合によりいくつもの宗派に分かれていったものを総称してキリスト教と呼ぶのである。

宗教を悪用した例も多い。
中世まで聖書はラテン語(古代イタリア語)のものしかなく、市民はラテン語が読めなかったため、僧侶が聖書を読んでそれを市民に教えていた。
すると、僧侶はある種の「権力」を持つようになり、次第に「利益」を求めるようになった。
だから、当時の僧侶は聖書が翻訳されて自分たちの特権が無くなることを恐れたため翻訳を阻止し、時には翻訳者を処刑したりもした。
こうした流れの典型的な例が「免罪符」(お金を出せば罪が免ぜられる札)であり、これに反対して独立したのがプロテスタントである。

布教の名を借りた侵略行為も数多く行われた。
15~16世紀、プロテスタントに信者を奪われたカトリック教会は、教えをもっと広く世界に広めて「市場拡大」を図るために、イエズス会を作って大々的な布教活動を開始した。
日本に来たフランシスコ・ザビエルもその一人である。
中南米においては、まず征服者がマヤ族やインカ族といった先住民の土地を征服し、その後に送り込まれた宣教師たちは征服者による原住民の奴隷化・搾取を黙認した、という歴史がある。
その他、アジアではフィリピンが同様のケースでキリスト教国となったが、フィリピンという国名の語源は占領したスペイン王子の名前、フェリーペである。
キリスト教は他の宗教を認めない排他性の強い宗教であるため、征服した土地に根付いていた宗教は殆ど壊滅状態に追い込まれた。
こうした歴史だけに着目すると、「キリスト教という宗教ってどうなの?」と思ってしまう。
戒律の厳しいユダヤ教の方が良いとも思わないけど、その時々の権力者のご都合主義で解釈を捻じ曲げたり、「罪を犯しても懺悔すればOK」という考え方に違和感を覚えてしまうのは僕だけだろうか。
しかし、以下を読むとキリスト教の異なる側面も見えてくる。


キリスト教では全ての人は神が創ったわけで、人類みな平等なはずである。
しかし、カトリックの世界では聖職者に階級がつけられるとともに、自己矛盾を正当化するための「王権神授説」のもと国王による独裁が行われ、異端者は厳罰・処刑されるのが常であった。
日本においても、例えば江戸幕府による中央集権はれっきとした独裁である。

一方、人類みな平等という基本精神の重要性を主張したのがプロテスタントであり、これが「基本的人権」という思想に結びついていくのである。
そして、基本的人権のもと、「一人一票」といった人権思想から選挙による民主政治が生まれ、野党の存在を認めて独裁を阻止する考え方が定着していったのである。
つまり、民主主義や資本主義は、プロテスタントから生まれた概念である。
そのような考え方を生み出したプロテスタントが、アメリカで原住民を駆逐して白人国家を建設し、黒人を奴隷として働かせた歴史を見ると、「基本的人権」の概念はあくまで限られた人達の間での概念であり、プロテスタントにも「ご都合主義宗教」の性格は残っていると思う。
一方、異なる人種との「本格的な」交流を持った事が無い日本の立場からすれば野蛮に見えてしまうかもしれないけど、日本が開国前に異人種との交流を持っていたとしたら、派閥(ムラ)の論理(前々回記事参照)によりもっと酷いことをしていたかもしれない、とも思う。


民主政治の考え方の対極が、マルキシズムの共産主義である。
共産主義における特徴的な思想は「無神論」であり、キリスト教社会である欧米では「共産主義=無神論」という考え方が定着している。
キリスト教の立場からすると、イスラム教やユダヤ教の教義は認めていないものの、彼らは「神の存在を信じる」という点でまだ理解できるのだが、神の存在すら否定する無神論者は悪魔のように見える。
極論だが、神(造物主)の存在を認めないということは、自分を生んでくれた母親の存在も認めないことと同じであり、キリスト教徒から見ると無神論者は「母親に敬意を示さない、ろくでなし」に見えるのである。
一方、共産主義の立場からすれば、宗教とは人々の心を惑わすものであり、マルクスは「宗教は阿片(麻薬)である」という言葉を残し、スターリンは国内にあった教会をことごとく破壊した。

従って、キリスト教社会における共産主義に対する嫌悪感は日本人の想像を超えており、世界情勢を考える際にはこのことを理解しておく必要がある。
一例として、旧ソ連のゴルバチョフが「私はロシア教会の洗礼を受けていた」とインタビューで答えたことがあったが、これは「無神論の国のトップが神を信じている」と述べたことを意味しており、西側諸国にとって画期的な事件であった。
このことにより、共産主義が大嫌いだったレーガンやサッチャーが急に態度を変え、ゴルバチョフをサポートするようになったのである。

このような背景から、キリスト教社会では現在でも「無神論=人権否定」という捉え方をされかねない。
したがって、日本人が日本の複雑な神道等をきちんと説明できないのであれば、キリスト教社会では「無神論者」ではなく「仏教徒」と言った方が無難なのである。
「無神論=人権否定」の話は知らなかった。
確かに、「宗教を信じないのであれば、何を拠り所(価値観)にして行動しているのか分からない」というアメリカ人の考え方を聞いたことがある。
でも、これって本当なのかな?
ゴルバチョフの話も「それだけが理由じゃないだろう」という気もするし。
宗教を全く信じていないアメリカ人を何人か知っているけど、彼らはどうなんだ。
今度、誰かに聞いてみよう。


民族問題と宗教問題が争いをもたらす典型的な事例がボスニア戦争である。
ボスニアでは、カトリックと東方正教会、イスラム教が三つ巴になっている地域である。
異なる宗教による対立を無神論という合理主義で消そうとしたのが共産主義であり、これがユーゴスラビア国家設立の背景だった。
ユーゴではチトー政権のもと、民族(宗教)を意図的にごちゃ混ぜにして住ませることで民族による結束を無くそうとしたが、ソ連崩壊により共産主義の思想が崩れ、凍結されていた民族意識が目覚めた結果、悲惨な内戦を招いたのである。
なお、ボスニアが現在落ち着きを取り戻しているのは土地(居住地)に対する執着が薄いからであり、特定の土地を聖地として強い拘りを持つユダヤ人(イスラエル)の場合は、一向に解決の目処が立たないのである。
この問題は知識不足であまり良く分からない。
同じクラスにセルビア出身の女性がいて、1990年台前半にユーゴの体制崩壊を受けてアメリカに来たと言っていたが、彼女のように他国へ移住する行動力・経済力がある人は限られていて、多くの人は内戦で苦しまなければならなかったんだろう。
一方、状況によっては日本もアジアのどこかで同じようなことをしていた可能性は否定できないので、結局人間のとる行動は世界どこも同じなのかもしれない。

そう考えると、色々と悪く言われてはいるが、多様な人種・民族をそれなりにまとめているアメリカという国には、人種・民族への拘りを超えて「アメリカ人」であろうとするインセンティブがあるのかもしれない。
一方、そんなアメリカにおいても個性を失わないユダヤ人のアイデンティティの強さが浮き彫りになるのである。


* * * * * * *

キリスト教信仰が強い地域(南部など)ではご近所同士助け合いの精神が強く、困っているとすぐに声をかけてくれる、という話をちょくちょく聞く。
でも、僕は不勉強なせいか、この「キリスト教的考え方に基づく助け合いの精神」と「異民族を駆逐してきたキリスト教の歴史」という二つのイメージがイマイチ合致しないのである。
想像だけど、全人類を二つにグループに分けて、自分の所属するグループ内では助け合い、相手グループは排除(現代では無関心)という整理をしているのか?
だとすれば、日本における派閥(ムラ)の論理とあまり変わらないのかもしれない。


あー、そろそろ書くのがしんどくなってきたので、次回のイスラム教で最後にします。

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by nycyn | 2006-12-14 14:29 | 雑感
世界の宗教と戦争講座 ②

前回の続き。

第2章からは各宗教の説明になるんだけど、その前に、作者が何度も参照している「神様」の取扱いについても触れておく。
なお、前回も書いたけど、著者の見解は若干偏っているため以下の内容が正しいというわけではなく、あくまで一つの考え方として紹介している。

キリスト教では「三位一体説」を採用して「神、神の子、聖霊」という三つのものを一体として捉えるのに対し、ユダヤ教とイスラム教では「神」のみを信仰の対象としている。
ユダヤ教では「神」を「エホバ」と呼び、唯一神であるエホバがユダヤ人を救ってくれると信じているため、自分は「神の子」だと主張するイエスを偽の救世主(詐欺師)だと解釈し、イエスを十字架にかけて殺してしまうのである。
イスラム教では「神」を「アッラー」と呼ぶが、このアッラーはユダヤ教の神エホバと同一のものである。
イスラム教ではイエスの存在は認めているものの信仰の対象とはなっておらず、アッラーの言葉をムハンマド(マホメット)が述べたという解釈をしている。

年代順で言えば、ユダヤ教が最も古く、彼らは神との契約を最初に交わしたと解釈することから「旧約聖書」を用い、キリスト教はイエスを預言者と解釈して新たに神との契約を結んだ、との立場をとることから「新約聖書」を用いている。
そして、ユダヤ教やキリスト教の考え方が成立した後にイスラム教が出現した。
だから、イスラム教の立場からすれば、ユダヤ教やキリスト教はイスラムの教えが出現する前の「不完全な宗教」であり、逆にユダヤ教の立場からすれば、キリスト教やイスラム教は「後から余計なものを追加した宗教」ということになる。

これら三つの宗教は自らが信じる神、及びその教えを唯一絶対のものとするため他の宗教を認めることは出来ず、この排他性が多くの災いをもたらしてきたのである。


2.ユダヤ教

ユダヤ教には「選民思想」があり、ユダヤ人は「自分たちだけが神の手によって救われる」と考えている。
選民思想というと「エリート意識」のように考えてしまいがちだが、そうではない。

ユダヤ人は非常に優秀な民族だが、政治的・軍事的能力は決して高くなく、数千年前の過去から何度も亡国の憂き目に遭ってきている。
しかし、こうした苦難の歴史を経ても彼らには選民思想があり、自分たちだけが最後は救われると信じていることから、国を失って他国に占領されたり世界各地に移り住んでも、ユダヤの文化や信仰を失うことは無かった。
ニューヨークの街中では、カールした長いもみ上げの伝統的ユダヤ人スタイルの人をよく見かける。
黄色いスクールバス(≒幼稚園バス)の中に伝統的スタイルのユダヤ人(大人)がギュウギュウ詰めで乗っているのを見たときはギョッとした。
彼らはKosherと呼ばれる厳格な要件を満たした食べ物(シーフードはヒレと鱗があるものだけ、とか)しか口にせず、Kosherのマックがあるくらい。
また、宗教と関係あるかどうか知らないけど、近くを通るとちょっと「臭う」人が多い。

金曜日の夜から土曜日にかけては安息日のためユダヤ系のお店は休みになり、その間はエレベーターにも乗らないことから、厳格なユダヤ教徒はマンションの高層階には住まないらしい。(リアルターである同級生談)
これらを見ていると「合理的じゃない」と思ってしまうのだが、ニューヨークでユダヤ人が確固たる地位を築いているのは間違いなく、彼らのアイデンティティの強さに感心する。
もちろん、ユダヤ人にも信仰の温度差はあり、僕のクラスメートであるユダヤ人の信仰レベルはかなり低そうだ。(そもそも安息日である金・土に授業があるプログラムに通ってるし。)


こうしたユダヤ人のアイデンティティの強さは、他国にとってある種の「不気味さ」につながる。
また、前述の通り、キリスト教からみればユダヤ人は「イエスを殺した民族」であるため、ユダヤ人はキリスト教社会から強烈な差別を受けることになる。

これが極端な例として出たのが、ナチス・ドイツによるホロコーストである。
キリスト教社会ではホロコーストを残虐な事件として捉えつつも、潜在的にユダヤに対する差別意識があるため素直に謝罪することが出来ず、キリスト教の本山であるバチカンは、戦後50年以上経った2000年になってようやく「ホロコーストを傍観した(阻止しなかった)ことは間違いであった」と認めたものの、未だに謝罪はしていない。
それ程、キリスト教世界におけるユダヤ人差別は根深いのである。

厳しい差別に加え、国籍を持たなかったユダヤ人はまともな仕事に就くことができず、(中世ではまともでは無かった)金貸しのような仕事に従事することとなり、これが「高利貸し」として更なる悪評を招いてしまうのである。
また、国籍を持たなかったユダヤ民族は国籍をあまり重視しないため、ジャーナリズムや法律、芸能といった国際的に活躍するジャンルで現在は絶大なる力を持っている。

こうした苦難の歴史を経て20世紀にようやく悲願のイスラエル建国を成し遂げたユダヤ人は、数千年越しに獲得した国家を守るべく、強烈な領土主義者になったのである。
宗教に関心の低い立場からすると、こうした「宗教的な拘り」を理解するのはとても難しい。
事実上のキリスト教国家であるアメリカでも、人々は神が創ったという立場を尊重するあまり、ダーウィンの進化論を学校で教えることを禁止しようという動きがあるし、前ローマ法王はコンドームの使用を認めなかったため、アフリカにおけるエイズ拡大に拍車をかけたという意見もある。(今後は限定的に緩和されるらしい。)
でも、これらは「理屈」ではなく「教義」なので、もしかしたら彼ら自身も合理的な説明は出来ないのかもしれない。
宗教上の教義と現代社会の現実を上手くバランスさせていくことは出来ないものか・・・難しいんだろうな。


と、今日はここまでにして、キリスト教はまた今度。
これから自宅で持ち帰り期末試験・・・、何時間かかるんだろ。

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by nycyn | 2006-12-12 11:10 | 雑感
複眼独眼

最近、ニュースねたが多いけど・・・
6日付日経金融新聞の「複眼独眼」にこんな記事があった。

「大蔵省」復活の10年(抜粋)
住宅金融専門会社への公的資金投入問題への批判もあり、大蔵省は1996年の1月から3ヵ月間、正面扉を閉ざした。警備上の必要とされたが、要は国民の批判に耐えられなくなったわけだ。その後大蔵省の権威は地に落ち由緒正しき大蔵省の名も消え、財務省と金融庁になった。官僚の中の官僚である彼らの権力も弱まったかに見えた。
ところがどっこい。この10年、国家公務員の削減が進む中で金融庁だけは別格。99年度末の572人から06年度末には1340人に増大。さらに現在180人近い増員要求中だ。「事前指導型」から「事後検査型」への転換という時代の流れや、”不正渦巻く”資本市場の厳格チェックという大義名分の下、人員を拡大したのだ。
人員増は権力の増大と表裏一体だ。この間繰り返された厳しい「処分」の結果、銀行や証券会社、監査法人にいたるまで、金融庁の意向をくみ取ることに日々きゅうきゅうとなった。金融行政に関する限り、十数年前の大蔵省よりも権力を誇る。権力が増大すれば、いずれ利権となり、腐敗が生じる。そんな危うさを感じる。

一昨日書いた「早まるなよ」や、7月に書いた「規制とコスト」と切り口は違うけど、同じような考え方の人がいることが分かり、少し安心した。
自浄作用が働くとも思えないから、記事にあるように利権や腐敗が発生し、世間から非難されることで体質改善につながればいいな、とさえ思う。
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by nycyn | 2006-12-08 03:21 | 雑感
フランコーナ監督

芸能サイトZAKZAKを見ていたら、大リーグ・レッドソックスの監督が松坂について語っているニュースを見つけた。(以下抜粋)

フランコーナ監督は松坂と会食したときの印象について、「とても楽しい夜だった。おれは日本語はまったくだめだが、自然な笑顔で悪くなかった。何とか、本来の持っている力を出せる快適な環境をつくってやりたいと思う」と好印象だったことを明らかにした。

また、レッドソックスはすでにファレル新投手コーチが日本語の勉強を始めるなど、2人の受け入れ体制を整えはじめている。

「簡単な言葉だけでいいと思っている。われわれはすでに他地域からも英語のできない選手と契約しており、その国の言語をこちらが学ぶのは、選手に敬意を示すことになると思うから。監督としては言葉ができなくても、勝ち投手を背中を叩いてねぎらうだけだから問題はない」とフランコーナ監督。さらに、日本の文化・風習面についても予習中だ。

「松坂に会ったとき、われわれが時間をかけたのは、彼が何を敬意と感じ、何を無礼と感じるかに理解を巡らせることだった。(日本人報道陣のみなさんも)もし、おれが変なことをしたら言ってほしいんだが、例えば、初対面の人と会って抱き合うことが日本では駄目ならば、それはしない。おれはいつもやってるんだけど、腕を組んでいてもいい。フレンドリーなことが、必ずしも敬意にあたらない文化なら、おれはそれに合わせる」

日本の報道陣向けのコメントなので多少のサービス精神が含まれているだろうけど、それにしても大いに感心してしまった。

アメリカ人も色々いるが、全体的な傾向として「英語は世界語(非英語圏の人が英語に合わせるべき)、他国にあまり興味は無い(パスポート保有率も低いらしい)」という思想を持っているイメージがある。
僕が中欧に旅行した話を何人かのクラスメートにしたら、半分くらいが「英語は通じた?」と聞いてきたけど、これもその表れかもしれない。

一方、フランコーナ監督のコメントのすばらしいこと。
「(アメリカに来る選手の)その国の言語をこちらが学ぶのは、選手に敬意を示すことになる」なんて、アメリカ人の口から出てきた言葉というのが驚きだ。
また、「松坂と会った時、彼が何を敬意と感じ、何を無礼と感じるかに時間をかけた」とか、「(日本の価値観に照らして)変なことをしたら言ってほしい」なんて、他国に行く人の言葉ならまだしも、迎える立場の人の言葉というのがすごい。

もちろん、監督も言っているように、実際にレッドソックスのスタッフが使う日本語は簡単なものだけだろうけど、何よりも気持ちが嬉しいじゃないか。(←何でお前が嬉しいんだ?)
やっぱ、ワールドシリーズを制覇するような監督はちょっと違うのかも。
また、監督はサウスダコタ出身らしいけど、田舎ならではの優しさとか、中西部気質が関係しているのかな。

ここまで環境を整えてもらっているんだから、松坂(&岡島)には是非がんばってもらいたいし、チームのホスピタリティに甘えることなく、英語も勉強してチームに馴染んで欲しいなあ。
ええ、人のこと言える立場じゃないのは分かっとります。。。

別に野球ファンじゃないんだけど、今後のレッドソックスに注目していきたい。

英語版のニュースはコチラ

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by nycyn | 2006-12-07 11:18 | 雑感
早まるなよ

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ついに、NYは摂氏マイナスに突入した。
先週金曜日は20℃くらいまで上がったのに・・・
おかげで週末は危うく風邪を引くところだった。

そんな事はさておき、僕は週末に新聞を読まないので、月曜にまとめて読むことにしている。
今日はWSJの「Capital Flight」というタイトルの記事が気になって読んでみると、こんなことが書いてあった。

最近発表されたあるレポートによると、企業にとって規制や法令を遵守するためのコストが増加してきていることにより、アメリカ資本市場の競争力が失われている。
企業がIPO(株式公開)を行う際、米国ではなく欧州などの外国市場を選ぶケースが増えてきているのは周知のところ。
また、ベンチャー企業によるIPOが減少し、現在では90%のベンチャーがIPOではなくストラテジックバイヤーにより買収されることを選択しているが、これは価格・流動性の観点からベンチャーにとって不利である。
しかし、規制当局はこの問題を直視せず、「米国市場はコスト・ベネフィットの観点から理想的な市場である」と正当化している。
世界の資本市場間の競争は激化してきており、アメリカは過剰規制による痛手を受ける可能性が高まっている。

以前からこのブログをお読みいただいている方はお気づきかもしれないけど、以前に書いた 規制とコスト の議論と似たようなものである。
あの時は、日本の規制当局に比べて米国は柔軟だね、なんて書いたんだけど、今回の記事を読むとそうでもないのかな、と思ってしまう。
僕が見聞きした範囲では、抜本的な改正というよりは、一定規模以下の企業には適用しない、みたいな議論がなされているらしいけど。

なお、この記事の元になっているレポートはハーバード・ロースクールの教授やうちのビジネススクールの学長が主導しているものであり、それなりの反響があるのでは、と期待もできる。
一方で、規制を緩めた結果、何か問題が起これば規制当局が非難される可能性があるわけで、難しい問題だとは思うけど、是非とも「最適なコスト・ベネフィット」に向けて議論して欲しい。


で、日本の話になるんだけど、日本でも上記記事の元になっているSarbanes-Oxley法の日本版を来年にも導入するのでは、と言われている。
まあ、時代の流れ的にそうなるのかもしれないけど、記事のような「適正化」の動きがあることも念頭に置きながら議論して欲しいんだよね。

前回も書いたけど、規制当局は「規制を強化すれば良い」という風潮になってきている気がしてて、マスコミもそれを支持するような報道が多い。
例えば、12/3付Nikkei Netのこの報道

金融機関検査、顧客保護に重点・金融庁
 金融庁は来年度から、金融機関が預金やローンなどの利用者を保護する体制をきちんと整備しているか重点的に検査する。金融商品の販売をめぐるトラブルが相次いでいるためで、検査の指針(金融検査マニュアル)を抜本的に見直す。金融機関の内部管理体制を厳しく点検し、検査などを通じて法令違反が確認されれば、行政処分につながる可能性もある。
 金融庁は来年4月の検査から適用する指針の改定作業を進めており、年内にも公表する。現在は融資先の倒産で損失を被る「信用リスク」などリスク管理体制を重点項目に掲げているが、不良債権問題が峠を越したこともあり、顧客保護を新たな重点項目に加える方針が固まった。

ニュートラルに書いているようにも見えるけど、これを読んだ人の多くは「規制強化により顧客保護が推進されるだろう」という印象「だけ」を持つと思う。
でも、出来れば「これによって金融機関のコストが増加し、最終的には顧客にそのコストが転嫁されるかもしれないよ」って事まで書いて欲しいんだよね。(無理か・・・)
とは言いつつ、金融機関の不祥事もチョロチョロ出てきているから、どっちもどっちな部分もあるんだけど。。。

日経の記事にもある金融検査マニュアルについて、導入時の思想ではミニマム・スタンダード(必ず守るべきこと)とベスト・プラクティス(守ったほうが良いこと)に分かれていたはずなのに、今では全てがミニマム・スタンダード扱いされていて、マニュアルに書かれている事は全て守っていないとダメという、法律のような扱いになっているらしい。
どういう理由でそうなったのかは良く分からないけど、それが容認・支持されている雰囲気が気に食わない。

で、心配なのは、そういう雰囲気の中で日本がSOX法のような法令導入の議論を行っているということ。
僕の印象(偏見)だけど、外国の法令規則を収集して総集編のようなものを日本の基準として取り入れるのが大好きな当局が、米国(の一部)で「過剰規制」だと言われている法律を拠り所にしているかもしれないわけだ。
だから、「総集編」を作るにあたっては、せめて米国におけるSOX法見直しの結論が出てからにして欲しいな、と思うのである。

一方、lat37nさんのブログを拝見すると、現在検討中の法令によって発生するであろう(?)仕事をあてこんで、せっせと(胡散臭い)営業活動に勤しんでいる人達もいるらしいので、この議論がどうなるのかは全く分からない。


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WSJの記事
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by nycyn | 2006-12-05 15:12 | 雑感
世界の宗教と戦争講座 ①

今の生活をしていると、仕事にも大学にも関係ない本を読むことはあまり無い。
でも、読みたい本はちらほらあるので、買った本が未読のまま山積みされていく。
じゃあ、いつ読むかと言うと、旅行や出張で移動する時がほとんど。
だから、読みたい本がある時は、長時間のフライトもあまり苦にならない。

f0081958_11245259.jpg1ヵ月ほど前に「世界の宗教と戦争講座」という、数年前の本を読んだ。
つまらなそー、という声が聞こえてきそうだけど、アメリカで様々な人種と接する中で、宗教の理解無くしては彼らを理解することは出来ないと思っていた僕には最適の本だった。
宗教に関しては、中学や高校の歴史の授業で多少やったかもしれないけど、ちゃんと考えたり勉強したりしたことが無い日本人も少なくないのではないだろうか。

この本では、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教など、それぞれの背景や特徴を解説し、宗教同士の対立の構図を解説するとともに、日本人の特徴にも触れている。
宗教に関する知識が不足している僕に本の内容に関する正否の判断は難しいけど、一つの解釈として彼の説明は興味深かった。
ただ、どうも作者は中国や韓国が好きではないらしく、これらの国の記述になるとやや感情論に走っている感は否めない。

そんな「世界の宗教と戦争講座」について、内容を忘れてしまいそうなので簡単にまとめてみることにした。
なお、以下に記載している本の内容は完全な引用ではなく、構成や表現は勝手に変更して要約しているので、本の内容が正確に表現できていない可能性があることをお含み置きください。


* * * * * * *

1.和の世界

日本人が「和」を大切にする歴史・背景についての説明であり、ここでは宗教にはあまり触れていない。

作者の「仮説」では、「和」は「環(わ)」という漢字が昔は使われており、「環」は「輪」という意味である。
日本人が集落で生活をしていた時代、集落は濠で囲まれており、この環状の濠で囲まれた集落において最も大切にされるものが「環」であり、やがて「環(和)」が人間関係で最も大切なものとされるようになった。
この部分はやや根拠に乏しい。


そして、一つの史実として聖徳太子の十七条憲法を紹介している。

第一条 和を以って貴しとなす
第二条 篤く三宝を敬え (三宝:仏、仏の教え、それを伝える人)
第三条 詔(天皇の命令)を承りては必ず謹め

つまり、仏教徒である聖徳太子が、仏教よりも天皇よりも「和」を大事にしろ、と説いている。
宗教の世界では神や仏よりも偉いものは存在しないから、日本の「和」の精神が宗教に由来しているわけではないことが分かる。

また、最後の条文はこうなっている。

第十七条 夫れ事独り断むべからず、必ず衆とともに宜しく論ふべし
(重要なことは一人で決定してはならない。必ず多くの人と議論すべきである。)

従って、最も重要なことを規定する第一条に「和」を持ってきて、最後の第十七条では「とにかく議論しなさい」と締めくくっている。
「和」の精神と十七条憲法の関連を説明している本は他にもあった気がする。


「和」や「議論」で物事を決める日本人は、柔軟性があると考えることが出来る。
例えば、キリスト教の世界では神様はキリスト、イスラム教の世界では神様はアッラーであり、お互いが相手(の宗教)を認めないと言う排他性がある。(概念の問題であり、現代社会ではそのようなことはない。)
一方、日本には神様のような唯一絶対のものが存在せず、極論すれば何でも話し合いで物事を変えられるため、これが日本社会の柔軟性につながっている。
ただ、個人的にはノン・ポリシーにもつながっていると言えると思う。
だから、欧米人が日系企業を批判する時に使う「誰が決定権者か分からない」とか「意思決定に時間がかかりすぎる」というフレーズも、こういう歴史があってのことだ、と考えることが出来るだろう。


この「唯一絶対のものが無い」という日本の思想は世界では珍しく、その説明として作者は「基本的人権」を挙げている。
キリスト教では、人間(アダムとイブ)は神様が造ったことになっていて、人権とはその神様が人間に与えたものである、という考え方が成立している。
だから、キリスト教の世界では「神様が与えた人権を人間が奪うことは出来ない」ということになる。

一方、日本における基本的人権の思想は明治時代に外国から入ってきたものであり、現在でも完全に日本に定着しているとは言い難い。
だから、例えば「死刑廃止」を論ずる時、キリスト教社会では「基本的人権」が論点になるのに対し、日本では「死刑宣告されたけど後から無実が証明されるかもしれない」という技術論になりがちである。

アメリカと中国の関係で言うと、アメリカが中国の人権問題を非難する際、アメリカは「(神が与えた)人権が侵されている」と主張するが、共産党が全てを決定する中国では「人権は神様が与えたもの」という思想が存在しないため、議論が全くかみ合わないわけである。
へー、知らなかった。


「和」の弊害として、政治家やサラリーマンが法律を犯した時、「派閥のため、会社のためにやったのに」という言い訳をすることがある。
「和」を重んじた結果として法を侵して何が悪いんだ、ということを言っているわけだが、こんな考え方をする人は欧米にはいない。
例えば賄賂を例に取ると、贈賄側は会社(株主)の利益のために賄賂を渡し、収賄側は受け取った賄賂を組織のために利用した場合で、これが「議論」を通じて行われたとしたら、「みんなで決めて組織のためにやったのに何が悪いんだ、法律を侵したかもしれないけど誰にも迷惑はかけていない」といった主張につながるわけだ。
いわゆる派閥(ムラ)の論理、というやつ。
キリスト教やイスラム教の世界では聖書やコーランに書いてあることは「絶対」であり、何があっても守らなければならない「原理原則」だが、日本には「原理原則」が存在しないため、派閥の論理が生まれやすいのである。

こうした「和」や「議論」の精神は、日本人に「一人で決めたことは正しくない」という思想を生み、また「一人では何も決められない」人が多いのである。
小泉元総理が「変人」と呼ばれるのもこのせいだろうか。
僕は仕事で「一人で決めた方が早いじゃん」とか「相談すると面倒なことになるから嫌だな」と思うことが時々あるけど、作者に言わせれば僕は「和」の精神が欠けているのかもしれない。

また、他人の行動を見て真似をする横並び主義や大衆迎合的なメディアに振り回される国民の姿も、根っこには「和」があるのかもしれないと思った。


「和」は日本人同士の道徳であり、「話せば分かる」という思考は物事の平和的な解決につながるはずだが、組織の中で「和」が保てなくなった場合、組織の外に解決策を求めがちである。
言い換えると、組織内の「和」を保つために、外へ攻撃の矛先を向けるのである。
日本全体(=組織)での和を保つ為に行ったのが豊臣秀吉による朝鮮出兵であり、満州事変である。
確かに、この観点から日本が他国に非難されている事例は結構ある。
例えば、政府・日銀による円安誘導は失業の輸出と言われているし、農業分野でも多数の軋轢を生み出している。
もちろん、似たようなことを行っている他国も沢山あるけど。

また、最近問題になっているいじめにも通じるものがあるのかな、とも思った。
「いじめに加わらない=和を乱す」、「弱い者をいじめることで仲間内(=組織)の和を保つ」みたいな感じで。
でも、これはちょっと強引かも。


* * * * * * *

以上、この本によると、こういう背景があって日本の「和」の精神が千年以上かけて培われてきたらしい。

個人的には、「和」の精神には長所もたくさんあると思う。
日本の高度成長を支えた要因の一つは「和」の精神だと思うし、そうした姿勢は多くの欧米企業の手本にもなっている。
今通っている大学の授業では、「和」の精神の重要性を説くケーススタディも少なくない。
ただし、上記の通り「和」の弊害が少なくないのも事実。

「国際化が進む中で日本もグローバルスタンダードを取り入れていかなければならない」と口で言うのは簡単だけど、「和」の精神を育んできた背景を考えると簡単には行かないよね、と思ってしまうのである。
だから、ビジネスの世界で「日本も欧米流の株主重視の経営に変わっていく必要がある」と若い人を中心に主張しても、じいさん達が経済の主要部分を握っている現状においては、「ハゲタカ」とか「我々が長年かけて築いてきたものに対して、(和(環)の外側にいる)株主が偉そうなことを言うんじゃない」といった論調が完全に無くなるとは到底思えない。



・・・と、最後まで一気に書いてしまおうと思っていたんだけど、第一章だけでかなり長くなってしまったので、各宗教に関する部分は(面倒くさくならなければ)また今度書きます。


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by nycyn | 2006-12-01 12:29 | 雑感
ケムトモ

ケムトモという言葉をご存知?

これは、何年か前の新聞に書いてあった造語。
当時、職場での禁煙がようやく徹底されてきて、スモーカーは社内の喫煙所や外でタバコを吸うようになった。
その結果、喫煙所等で頻繁に会うスモーカー同士が仲良くなり、情報交換をするようになったというもの。
こうして出来る人間関係のことを、新聞では「ケムトモ(煙友)」と表現していた。
因みに、霞ヶ関の合同庁舎の喫煙所では、強い縦割り組織である省庁の壁を超えて情報交換できるケムトモ達が情報通になりつつある、みたいな事も書いてあった。

実は僕も、タバコを吸う場所での会話が結構重要だったりする。
改まって話しかけると相手が身構えてしまうような事もあるけど、喫煙所での何気ない会話から入っていくと話を持っていきやすいのである。

仕事に関して言えば、喫煙所ならオフィスでは話しにくい事も話しやすいし、仕事を頼みたい相手がスモーカーである場合は、まともに依頼するよりも喫煙所で依頼した方がスムーズにいく場合もある。
また、仕事では直接係わらない部署の人とも「迫害者」同士で仲良くなれたりして、ネットワーク拡大にも役立つし、社内のウワサ話にも詳しくなる(笑)
OLが給湯室でヒソヒソ話をするようなものかな。

大学でもケムトモ・ネットワークが役に立っている。
クラスで一番優秀だと僕が思っている同級生もスモーカーで、授業で聞き取れなかった部分や日本人には理解し難いアメリカ人の思考回路について、いつも教えてもらっている。
授業が終わる度に改まって質問すれば当然ウザがられるけど、喫煙所に行けば大抵彼がいるので、何気なく近づいて、"How's it going? ..... Btw, the professor said ....."と話しかければ、自然な形で僕が知りたい情報が入手できるのである。

また、今学期受講しているキャピタル・マーケットの教授は英語の訛りがきつく、しかもかなり早口で話すため、ついていくのが結構しんどい。
f0081958_10203937.jpgそんな話を喫煙所でしていたら、ある女性がノートをコピーさせてくれた。
彼女と僕は違うクラスで、選択科目が始まった今学期になって初めて同じ授業を受講することになったんだけど、ケムトモとして入学当初から仲良くしていたから、こういう恩恵が得られたのである。
逆に、彼女は(恐らく優秀な)弁護士だけど数字系には強くないから、僕がファイナンス系の宿題を手伝ってあげることもある。
読めない字を書くアメリカ人が多い中、なんてきれいな文字!


・・・とまあ、タバコを美化するつもりは全く無いんだけど、「たまにはいい事もあるんだよ」というお話でした。

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by nycyn | 2006-11-30 10:36 | 雑感