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世界の宗教と戦争講座 ④

さて、今回はイスラム教。
過去分はこちら →


4.イスラム教

イスラム教の特徴として偶像崇拝の禁止がある。
神様は人間を超越した存在であり、その神様を人間が作るなんてとんでもない、神に対する冒涜である、という考え方。
これはキリスト教でもイスラム教でも同じはずだが、キリスト教では「神そのものではなくイメージだから良い」とされている。
なお、バーミヤン石窟の大仏をイスラム教徒が破壊したが、あれはタリバンという「ごく一部」の過激派が行ったことであり、全てのイスラム教徒がこのような破壊活動を行ってまで偶像崇拝を禁止しているわけではない。

厳しい食物規定もイスラム教の特徴であり、代表的なものに「豚肉を食べてはいけない」というのがある。
なぜ豚肉がダメなのか、実は良くわかっていないのだが、コーランに書いてあるからダメ、ということなのである。
イスラム教ではこのような細かい規定が全てコーランに書かれており、現代社会では合理的ではない規定も守らなければならないのである。
日本では「形式ではなく心で信じることが重要」といった考え方があり、キリスト教もどちらかといえばそれに近いが、イスラム教ではまず形式的なことをキッチリ守らなければならず、「形式的には戒律を守っていないけど心では信じている」というのは認められない。
大学の時にアルバイトをしていた居酒屋で、イスラム教の人がお客として来た時、焼き鳥盛り合わせの中に豚バラ串が入っているのを気づかずに一口食べ、豚だと気づいて涙目になったことがあった。(←焼き鳥盛り合わせに豚バラが入っているのは確かにおかしい。)
一方、その居酒屋の厨房で働いていたイラン人は豚キムチをバクバク食べていたので、この「形式主義」は人によってかなり差があるようだ。


その他、一日五回の礼拝や断食など馴染みの深いものもあるが、ザカート(喜捨、施し)の考え方が興味深い。
これは、豊かな人が貧しい人に施しを行う、しかも喜びを持って行う、というものである。
日本人が旅先でよく腹を立てることだが、イスラムやヒンズーの国にいくと人々が物乞いをしてくる、施しをあげたのにお礼を言わない、というのがある。
しかし、このザカートはコーランに従って行わなければならない「義務」である。
だから、物乞いをする人にしてみれば「ザカートを行うチャンスを与えてあげた」のであり、施しを受けてもお礼を言う筋合いは無いのである。
これは国と国の外交でも散見されることであり、国として援助を受けても感謝の気持ちを表さないことがある。

また、ザカートの別の側面として、援助を求める人には応じなければならない、というのがある。
例えば、道を尋ねられて「知らない」と答えたり、頼み事をされて断るのはザカートの精神に反することであり、知らない道を尋ねられたり、自分に出来ない事を頼まれても、知らない・出来ないとは言わず、出来る範囲で「何らかの対応」をしなければならないのである。
イスラム教徒ではない人にしてみれば単なる「嘘つき」だが、彼らにはその意識が無いので、この点は注意する必要がある。
ニューヨークにもいいかげんな人、安請け合いして結局何もしない人が沢山いるけど、彼らは全てイスラム教徒なのだろうか。(いやいや・・・)
また、横柄な態度で「タバコくれー」と言ってくる人がいるけど、僕はザカートのチャンスを与えられているのか・・・?


宗派に関しては、大多数を占めるスンニ派とシーア派に分かれる。
これはムハンマド(マホメット)の後継者を巡る争いの中で、後継者の地位を巡って争ったことが発端である。
スンニ派の主体はアラブ人(イラク等)であり、シーア派の主体はイラン人(白人)となっている。
イラン・イラクの対立はここに原点があり、「異教よりも異端の方が罪が重い」という言葉があるように、イラン・イラクは他の宗教よりもお互いを嫌っているのである。
イスラム教のような一神教では、同じイスラム教の中で異なる解釈を行っている宗派は許せない存在であり、場合によっては殺害してでもそれを撲滅しようとする。
ここで問題なのが、一部の過激派が拠り所としている「神の教えを守るための行為(侵略・殺害)は正義とみなされる」ことである。
もちろん、多くのイスラム教徒はこのような考え方を認めていない。

こうした考え方はキリスト教でも中世までは認められており、中南米の征服がその例である。
結果として、キリスト教徒は中南米の原住民の多くを殺害することで宗教・文化を破壊し、現在では全ての国がキリスト教を信じ、言語もスペイン語かポルトガル語になっている。
こうした征服・殺害を当時のカトリック教会が認め、むしろ推進していたところに一神教の恐ろしい一面がある。
宗教が征服・虐殺の理屈として使われる点は、オウム教の存在もあって、日本人に「宗教は恐い・不気味」というイメージを持たせる一つの要因になっていると思う。
日本にいる頃、極端な考え方を信じ込んでいる人のことを「あいつの考え方は宗教っぽい」などと言ったりしていたけど、アメリカでは絶対に言わないようにしている。(たまに言いそうになって慌てる。。)


イスラム教徒(パレスチナ)はユダヤ教徒(イスラエル)と激しく対立しているが、この原点は聖地エルサレムを巡る争いである。
呼び方は違っても同じ造物主を信じているイスラム・ユダヤ・キリストの各宗教は、全てエルサレムを聖地としている。
(ご都合主義の)キリスト教はともかく、イスラムもユダヤも戒律を厳格に守る宗教であることから、この聖地を他の宗教に渡すことは神の教えに背くことであり、絶対に出来ないのである。
だから、日本人から見ると「話し合えば・・・」と考えてしまいがちだが、これは原理原則を持たない人間の考えることであって、イスラム・ユダヤの両教徒にとってはあり得ない話なのである。
だから、エルサレムを巡る争いは、イスラム・ユダヤ・キリストの各宗教とは関係の無い第三者がエルサレムを管理することでしか解決されることは無いだろう。
じゃあ、仏教徒?ヒンズー?
いや、日本が存在感を発揮できる数少ない分野では?
ここは日本がエルサレムを管理するか・・・オランダ軍の護衛付きで。


* * * * * * *

この後も仏教とか儒教とかについて書いてあるけど、細かい話に終始してあまり面白くなかった。(←これ以上書かないための理由付けでもある。)

全体を通して、作者は宗教を悪い面から見ている印象を受けるが、これが一般的な日本人の感覚に近いのかな、と思った。
また、本を読み、理屈のうえで何となく理解できたとしても、宗教的な拘りや価値観に関する「温度感」を把握するのは難しいということが分かった。
出来れば別の機会に、違う作者が書いた宗教の本を読んでみたいと思う。


ということで、「世界の宗教と戦争講座」はこれにておしまい。
期末試験も明日でおしまい。

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by nycyn | 2006-12-16 14:05 | 雑感