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世界の宗教と戦争講座 ③

前々回(和の世界)前回(ユダヤ教)の続き。


3.キリスト教

キリスト教と言っても宗派は様々で、その数は600にも及ぶと言われ、代表的なものがローマ・カトリック教会、東方正教会(ギリシャ教会)、英国国教会、プロテスタント、である。

ユダヤ教に比べると、キリスト教は妥協の多い宗教である。
例えば、昔はカトリックだった英国において、どうしても離婚したい王様がいたけど、カトリックでは離婚が認められなかったので、カトリックから独立して英国国教会を作ってしまった。
このように、解釈や特定の人物の都合によりいくつもの宗派に分かれていったものを総称してキリスト教と呼ぶのである。

宗教を悪用した例も多い。
中世まで聖書はラテン語(古代イタリア語)のものしかなく、市民はラテン語が読めなかったため、僧侶が聖書を読んでそれを市民に教えていた。
すると、僧侶はある種の「権力」を持つようになり、次第に「利益」を求めるようになった。
だから、当時の僧侶は聖書が翻訳されて自分たちの特権が無くなることを恐れたため翻訳を阻止し、時には翻訳者を処刑したりもした。
こうした流れの典型的な例が「免罪符」(お金を出せば罪が免ぜられる札)であり、これに反対して独立したのがプロテスタントである。

布教の名を借りた侵略行為も数多く行われた。
15~16世紀、プロテスタントに信者を奪われたカトリック教会は、教えをもっと広く世界に広めて「市場拡大」を図るために、イエズス会を作って大々的な布教活動を開始した。
日本に来たフランシスコ・ザビエルもその一人である。
中南米においては、まず征服者がマヤ族やインカ族といった先住民の土地を征服し、その後に送り込まれた宣教師たちは征服者による原住民の奴隷化・搾取を黙認した、という歴史がある。
その他、アジアではフィリピンが同様のケースでキリスト教国となったが、フィリピンという国名の語源は占領したスペイン王子の名前、フェリーペである。
キリスト教は他の宗教を認めない排他性の強い宗教であるため、征服した土地に根付いていた宗教は殆ど壊滅状態に追い込まれた。
こうした歴史だけに着目すると、「キリスト教という宗教ってどうなの?」と思ってしまう。
戒律の厳しいユダヤ教の方が良いとも思わないけど、その時々の権力者のご都合主義で解釈を捻じ曲げたり、「罪を犯しても懺悔すればOK」という考え方に違和感を覚えてしまうのは僕だけだろうか。
しかし、以下を読むとキリスト教の異なる側面も見えてくる。


キリスト教では全ての人は神が創ったわけで、人類みな平等なはずである。
しかし、カトリックの世界では聖職者に階級がつけられるとともに、自己矛盾を正当化するための「王権神授説」のもと国王による独裁が行われ、異端者は厳罰・処刑されるのが常であった。
日本においても、例えば江戸幕府による中央集権はれっきとした独裁である。

一方、人類みな平等という基本精神の重要性を主張したのがプロテスタントであり、これが「基本的人権」という思想に結びついていくのである。
そして、基本的人権のもと、「一人一票」といった人権思想から選挙による民主政治が生まれ、野党の存在を認めて独裁を阻止する考え方が定着していったのである。
つまり、民主主義や資本主義は、プロテスタントから生まれた概念である。
そのような考え方を生み出したプロテスタントが、アメリカで原住民を駆逐して白人国家を建設し、黒人を奴隷として働かせた歴史を見ると、「基本的人権」の概念はあくまで限られた人達の間での概念であり、プロテスタントにも「ご都合主義宗教」の性格は残っていると思う。
一方、異なる人種との「本格的な」交流を持った事が無い日本の立場からすれば野蛮に見えてしまうかもしれないけど、日本が開国前に異人種との交流を持っていたとしたら、派閥(ムラ)の論理(前々回記事参照)によりもっと酷いことをしていたかもしれない、とも思う。


民主政治の考え方の対極が、マルキシズムの共産主義である。
共産主義における特徴的な思想は「無神論」であり、キリスト教社会である欧米では「共産主義=無神論」という考え方が定着している。
キリスト教の立場からすると、イスラム教やユダヤ教の教義は認めていないものの、彼らは「神の存在を信じる」という点でまだ理解できるのだが、神の存在すら否定する無神論者は悪魔のように見える。
極論だが、神(造物主)の存在を認めないということは、自分を生んでくれた母親の存在も認めないことと同じであり、キリスト教徒から見ると無神論者は「母親に敬意を示さない、ろくでなし」に見えるのである。
一方、共産主義の立場からすれば、宗教とは人々の心を惑わすものであり、マルクスは「宗教は阿片(麻薬)である」という言葉を残し、スターリンは国内にあった教会をことごとく破壊した。

従って、キリスト教社会における共産主義に対する嫌悪感は日本人の想像を超えており、世界情勢を考える際にはこのことを理解しておく必要がある。
一例として、旧ソ連のゴルバチョフが「私はロシア教会の洗礼を受けていた」とインタビューで答えたことがあったが、これは「無神論の国のトップが神を信じている」と述べたことを意味しており、西側諸国にとって画期的な事件であった。
このことにより、共産主義が大嫌いだったレーガンやサッチャーが急に態度を変え、ゴルバチョフをサポートするようになったのである。

このような背景から、キリスト教社会では現在でも「無神論=人権否定」という捉え方をされかねない。
したがって、日本人が日本の複雑な神道等をきちんと説明できないのであれば、キリスト教社会では「無神論者」ではなく「仏教徒」と言った方が無難なのである。
「無神論=人権否定」の話は知らなかった。
確かに、「宗教を信じないのであれば、何を拠り所(価値観)にして行動しているのか分からない」というアメリカ人の考え方を聞いたことがある。
でも、これって本当なのかな?
ゴルバチョフの話も「それだけが理由じゃないだろう」という気もするし。
宗教を全く信じていないアメリカ人を何人か知っているけど、彼らはどうなんだ。
今度、誰かに聞いてみよう。


民族問題と宗教問題が争いをもたらす典型的な事例がボスニア戦争である。
ボスニアでは、カトリックと東方正教会、イスラム教が三つ巴になっている地域である。
異なる宗教による対立を無神論という合理主義で消そうとしたのが共産主義であり、これがユーゴスラビア国家設立の背景だった。
ユーゴではチトー政権のもと、民族(宗教)を意図的にごちゃ混ぜにして住ませることで民族による結束を無くそうとしたが、ソ連崩壊により共産主義の思想が崩れ、凍結されていた民族意識が目覚めた結果、悲惨な内戦を招いたのである。
なお、ボスニアが現在落ち着きを取り戻しているのは土地(居住地)に対する執着が薄いからであり、特定の土地を聖地として強い拘りを持つユダヤ人(イスラエル)の場合は、一向に解決の目処が立たないのである。
この問題は知識不足であまり良く分からない。
同じクラスにセルビア出身の女性がいて、1990年台前半にユーゴの体制崩壊を受けてアメリカに来たと言っていたが、彼女のように他国へ移住する行動力・経済力がある人は限られていて、多くの人は内戦で苦しまなければならなかったんだろう。
一方、状況によっては日本もアジアのどこかで同じようなことをしていた可能性は否定できないので、結局人間のとる行動は世界どこも同じなのかもしれない。

そう考えると、色々と悪く言われてはいるが、多様な人種・民族をそれなりにまとめているアメリカという国には、人種・民族への拘りを超えて「アメリカ人」であろうとするインセンティブがあるのかもしれない。
一方、そんなアメリカにおいても個性を失わないユダヤ人のアイデンティティの強さが浮き彫りになるのである。


* * * * * * *

キリスト教信仰が強い地域(南部など)ではご近所同士助け合いの精神が強く、困っているとすぐに声をかけてくれる、という話をちょくちょく聞く。
でも、僕は不勉強なせいか、この「キリスト教的考え方に基づく助け合いの精神」と「異民族を駆逐してきたキリスト教の歴史」という二つのイメージがイマイチ合致しないのである。
想像だけど、全人類を二つにグループに分けて、自分の所属するグループ内では助け合い、相手グループは排除(現代では無関心)という整理をしているのか?
だとすれば、日本における派閥(ムラ)の論理とあまり変わらないのかもしれない。


あー、そろそろ書くのがしんどくなってきたので、次回のイスラム教で最後にします。

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by nycyn | 2006-12-14 14:29 | 雑感