NewYorkScenery
nycyn.exblog.jp

ニューヨークの生活、MBA、仕事・・・
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
世界の宗教と戦争講座 ①

今の生活をしていると、仕事にも大学にも関係ない本を読むことはあまり無い。
でも、読みたい本はちらほらあるので、買った本が未読のまま山積みされていく。
じゃあ、いつ読むかと言うと、旅行や出張で移動する時がほとんど。
だから、読みたい本がある時は、長時間のフライトもあまり苦にならない。

f0081958_11245259.jpg1ヵ月ほど前に「世界の宗教と戦争講座」という、数年前の本を読んだ。
つまらなそー、という声が聞こえてきそうだけど、アメリカで様々な人種と接する中で、宗教の理解無くしては彼らを理解することは出来ないと思っていた僕には最適の本だった。
宗教に関しては、中学や高校の歴史の授業で多少やったかもしれないけど、ちゃんと考えたり勉強したりしたことが無い日本人も少なくないのではないだろうか。

この本では、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教など、それぞれの背景や特徴を解説し、宗教同士の対立の構図を解説するとともに、日本人の特徴にも触れている。
宗教に関する知識が不足している僕に本の内容に関する正否の判断は難しいけど、一つの解釈として彼の説明は興味深かった。
ただ、どうも作者は中国や韓国が好きではないらしく、これらの国の記述になるとやや感情論に走っている感は否めない。

そんな「世界の宗教と戦争講座」について、内容を忘れてしまいそうなので簡単にまとめてみることにした。
なお、以下に記載している本の内容は完全な引用ではなく、構成や表現は勝手に変更して要約しているので、本の内容が正確に表現できていない可能性があることをお含み置きください。


* * * * * * *

1.和の世界

日本人が「和」を大切にする歴史・背景についての説明であり、ここでは宗教にはあまり触れていない。

作者の「仮説」では、「和」は「環(わ)」という漢字が昔は使われており、「環」は「輪」という意味である。
日本人が集落で生活をしていた時代、集落は濠で囲まれており、この環状の濠で囲まれた集落において最も大切にされるものが「環」であり、やがて「環(和)」が人間関係で最も大切なものとされるようになった。
この部分はやや根拠に乏しい。


そして、一つの史実として聖徳太子の十七条憲法を紹介している。

第一条 和を以って貴しとなす
第二条 篤く三宝を敬え (三宝:仏、仏の教え、それを伝える人)
第三条 詔(天皇の命令)を承りては必ず謹め

つまり、仏教徒である聖徳太子が、仏教よりも天皇よりも「和」を大事にしろ、と説いている。
宗教の世界では神や仏よりも偉いものは存在しないから、日本の「和」の精神が宗教に由来しているわけではないことが分かる。

また、最後の条文はこうなっている。

第十七条 夫れ事独り断むべからず、必ず衆とともに宜しく論ふべし
(重要なことは一人で決定してはならない。必ず多くの人と議論すべきである。)

従って、最も重要なことを規定する第一条に「和」を持ってきて、最後の第十七条では「とにかく議論しなさい」と締めくくっている。
「和」の精神と十七条憲法の関連を説明している本は他にもあった気がする。


「和」や「議論」で物事を決める日本人は、柔軟性があると考えることが出来る。
例えば、キリスト教の世界では神様はキリスト、イスラム教の世界では神様はアッラーであり、お互いが相手(の宗教)を認めないと言う排他性がある。(概念の問題であり、現代社会ではそのようなことはない。)
一方、日本には神様のような唯一絶対のものが存在せず、極論すれば何でも話し合いで物事を変えられるため、これが日本社会の柔軟性につながっている。
ただ、個人的にはノン・ポリシーにもつながっていると言えると思う。
だから、欧米人が日系企業を批判する時に使う「誰が決定権者か分からない」とか「意思決定に時間がかかりすぎる」というフレーズも、こういう歴史があってのことだ、と考えることが出来るだろう。


この「唯一絶対のものが無い」という日本の思想は世界では珍しく、その説明として作者は「基本的人権」を挙げている。
キリスト教では、人間(アダムとイブ)は神様が造ったことになっていて、人権とはその神様が人間に与えたものである、という考え方が成立している。
だから、キリスト教の世界では「神様が与えた人権を人間が奪うことは出来ない」ということになる。

一方、日本における基本的人権の思想は明治時代に外国から入ってきたものであり、現在でも完全に日本に定着しているとは言い難い。
だから、例えば「死刑廃止」を論ずる時、キリスト教社会では「基本的人権」が論点になるのに対し、日本では「死刑宣告されたけど後から無実が証明されるかもしれない」という技術論になりがちである。

アメリカと中国の関係で言うと、アメリカが中国の人権問題を非難する際、アメリカは「(神が与えた)人権が侵されている」と主張するが、共産党が全てを決定する中国では「人権は神様が与えたもの」という思想が存在しないため、議論が全くかみ合わないわけである。
へー、知らなかった。


「和」の弊害として、政治家やサラリーマンが法律を犯した時、「派閥のため、会社のためにやったのに」という言い訳をすることがある。
「和」を重んじた結果として法を侵して何が悪いんだ、ということを言っているわけだが、こんな考え方をする人は欧米にはいない。
例えば賄賂を例に取ると、贈賄側は会社(株主)の利益のために賄賂を渡し、収賄側は受け取った賄賂を組織のために利用した場合で、これが「議論」を通じて行われたとしたら、「みんなで決めて組織のためにやったのに何が悪いんだ、法律を侵したかもしれないけど誰にも迷惑はかけていない」といった主張につながるわけだ。
いわゆる派閥(ムラ)の論理、というやつ。
キリスト教やイスラム教の世界では聖書やコーランに書いてあることは「絶対」であり、何があっても守らなければならない「原理原則」だが、日本には「原理原則」が存在しないため、派閥の論理が生まれやすいのである。

こうした「和」や「議論」の精神は、日本人に「一人で決めたことは正しくない」という思想を生み、また「一人では何も決められない」人が多いのである。
小泉元総理が「変人」と呼ばれるのもこのせいだろうか。
僕は仕事で「一人で決めた方が早いじゃん」とか「相談すると面倒なことになるから嫌だな」と思うことが時々あるけど、作者に言わせれば僕は「和」の精神が欠けているのかもしれない。

また、他人の行動を見て真似をする横並び主義や大衆迎合的なメディアに振り回される国民の姿も、根っこには「和」があるのかもしれないと思った。


「和」は日本人同士の道徳であり、「話せば分かる」という思考は物事の平和的な解決につながるはずだが、組織の中で「和」が保てなくなった場合、組織の外に解決策を求めがちである。
言い換えると、組織内の「和」を保つために、外へ攻撃の矛先を向けるのである。
日本全体(=組織)での和を保つ為に行ったのが豊臣秀吉による朝鮮出兵であり、満州事変である。
確かに、この観点から日本が他国に非難されている事例は結構ある。
例えば、政府・日銀による円安誘導は失業の輸出と言われているし、農業分野でも多数の軋轢を生み出している。
もちろん、似たようなことを行っている他国も沢山あるけど。

また、最近問題になっているいじめにも通じるものがあるのかな、とも思った。
「いじめに加わらない=和を乱す」、「弱い者をいじめることで仲間内(=組織)の和を保つ」みたいな感じで。
でも、これはちょっと強引かも。


* * * * * * *

以上、この本によると、こういう背景があって日本の「和」の精神が千年以上かけて培われてきたらしい。

個人的には、「和」の精神には長所もたくさんあると思う。
日本の高度成長を支えた要因の一つは「和」の精神だと思うし、そうした姿勢は多くの欧米企業の手本にもなっている。
今通っている大学の授業では、「和」の精神の重要性を説くケーススタディも少なくない。
ただし、上記の通り「和」の弊害が少なくないのも事実。

「国際化が進む中で日本もグローバルスタンダードを取り入れていかなければならない」と口で言うのは簡単だけど、「和」の精神を育んできた背景を考えると簡単には行かないよね、と思ってしまうのである。
だから、ビジネスの世界で「日本も欧米流の株主重視の経営に変わっていく必要がある」と若い人を中心に主張しても、じいさん達が経済の主要部分を握っている現状においては、「ハゲタカ」とか「我々が長年かけて築いてきたものに対して、(和(環)の外側にいる)株主が偉そうなことを言うんじゃない」といった論調が完全に無くなるとは到底思えない。



・・・と、最後まで一気に書いてしまおうと思っていたんだけど、第一章だけでかなり長くなってしまったので、各宗教に関する部分は(面倒くさくならなければ)また今度書きます。


f0081958_11284510.jpg

[PR]
by nycyn | 2006-12-01 12:29 | 雑感